すぐにつかえる名言「経営者のサプリメント」

古今東西、世界の軍師・参謀・戦略家と呼ばれる人々の名言を紹介しています。

第9回 偽りの ある世ならずは ひとかたに たのみやせまし 人の言の葉 [日野富子]

日野富子の座像(京都市上京区 宝鏡寺阿弥陀堂)
日野富子の座像(京都市上京区 宝鏡寺阿弥陀堂

“悪女”はなぜ人の言葉を信じたかったのか

日野富子(1440年~1496年)といえば、“日本三大悪女”にも数えられる人物として有名です。ちなみに日本三大悪女とは、歴史的に古い順に、北条政子日野富子淀君です。彼女は応仁の乱で京都を戦渦に巻き込んだ首謀者としても有名です。

おそらく悪女になった最大の理由は“守銭奴”“銭ゲバ”といわれたからでしょう。室町幕府の第8代将軍・足利義政正室という地位を利用して巨万の富を築きました。同時代の人々の評判も良くなかったようです。

彼女の辞世の句「偽りの ある世ならずは ひとかたに たのみやせまし 人の言の葉」は、偽りの全くない世の中であれば人の言葉を頼みにしなくてもよいかもしれませんが、こういう乱世だからこそ人の言葉を信じたい、という意味です。

悪女が発したこの言葉は、本人の行動とはうらはらで、なぜ?と思ってしまいます。乱世を女性ながらに必死で生き抜いてきた日野富子の心の叫びのようにも聞こえます。



彼女は何が悪女だったのか

日野富子が悪女に挙げられる理由は、いくつかありますが、有名なエピソードは次のようなことです。

自分の夫足利義政の乳⺟であり側室の今参局(いままいりのつぼね)を自害に追い込んでいます。富子は夫との間に子どもを何人か授かっていますが、第一子が生まれたその日に死んだことを今参局の呪いのせいとして流罪にして、今参局は護送途中に自害しました。

富子の子どもですが、最初は女児しか生まれず将軍後継者を諦め、夫である将軍義政の弟義尋を跡継ぎにすることを決めていました。しかしその後に男児が生まれ、そこから熾烈な後継者争いが始まります。これが応仁の乱です。

そして戦争には必ず戦費が必要です。この商機を富子は逃しませんでした。戦争に参加しているあらゆる大名に戦費を貸し付け、それで巨万の富を築いたのです。応仁の乱の後も、関所を設けてそこからも上納金を得ていました。彼女が死んだときの遺産は、今の金額にして60億円とも70億円ともいわれています。

また、このころには夫である将軍義政との夫婦関係も冷え切っており、こともあろうに後⼟御⾨天皇(ごつちみかどてんのう)との熱愛疑惑までもたらします。天皇との不倫など今の時代では考えようもありません。

民衆が戦争の惨禍で苦しんでいた時にぼろ儲けをし、天皇との不倫の噂まであったわけですから、評判も悪くなるわけです。しかし、悪い面だけみていては人物像のすべてはみれません。

時の関白に多額の寄付をして、関白一条兼良から源氏物語の講義を受けています。学問に熱心な面も垣間見えます。また、戦乱によって御所の修復が必要になった時も多額の寄進をしています。



行動力と胆力

日野富子の生涯を追いかけていくとき、やはりその行動力と胆力には目を見張るものがあります。今でこそ女性の社会進出の必要性は声を大にして言われますが、およそ550年前にすでに彼女は十分すぎるほど社会進出をしていました。

いつの時代も行動力、そしてその裏付けとなる胆力が必要なことを思い知らされます。たしかに日野富子ほどの悪評は、今の時代の経営者にはリスクですが、それにしても、社長やリーダーには、彼女の行動力と胆力を参考にするメリットは多いと思います。


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第8回 一つのことを一生やり続けられると確信する日がくる [スティーブ・ジョブズ]

iPhoneの生みの親 スティーブ・ジョブズ
iPhoneの生みの親 スティーブ・ジョブズ


iPhoneの生みの親は変わり者だった

いまや日本人になじみあるスマホの一角を担った“iPhone”、いわずとしれたアップル社の製品です。その創業者スティーブ・ジョブズ(1955年~2011年)はいまだに“信者”といわれるほどのファンを抱えています。

Mac”や“iPhone”を世に送り出した奇才スティーブ・ジョブズの人生や素顔はヒット商品とはまた別の顔をのぞかせます。驚くのは生まれるときからです。彼の本当の両親が結婚するとき、その結婚が認められず、彼はなんと誕生以前から養子に出すことが決められ、実際に生母と再会するのは30歳になってからでした。

アップル社のミーティングではたびたび癇癪(かんしゃく)を起こすことがあり、怒鳴ったりモノを投げつけることもあたっと伝わっています。また、すぐに社員をクビすることでも有名でした。ちょっと今の日本では考えられない経営者像です。

しかし、そういった彼だったからこそ当時瀕死のアップル社を“iPhone”という救世主の発明により救ったのでしょう。「一つのことを一生やり続けられると確信する日がくる」という言葉は、そんな彼でもクリエイティヴだけには常にこだわり続けた、彼らしいメッセージです。

iPhone”ほどのヒット商品を世に送り出そうと思えば一生のこだわりが必要なのかもしれません。しかし、今の世界においても、たとえ中小企業の新製品としても、このような感覚はとても重要です。それを意図してではなく、彼のように自分の中の癖・慣習として定着させる必要があるのでしょう。

iPhone
iPhone


他のエピソード・名言

彼の他の逸話にも触れてみましょう。

1968年、ジョブズが13歳のとき、あこがれのヒューレット・パッカード社のビル・ヒューレットの自宅に電話をかけ、彼が「周波数カウンタの部品をください」と言うと、ビル・ヒューレットは部品をくれたばかりか、夏休みのアルバイトまで申し出てくれらという逸話が伝わっています。

13歳というと中学生です。中学生でそういった行動に出るところも秀逸ですが、13歳だからといって子ども扱いせず、大人として扱ったビル・ヒューレット氏も秀逸です。今の日本でもこうしたやり取りがもっとできる社会になれば、イノベーターが生まれやすい土壌ができるかもしれません。こういうイレギュラーなことを認めず、枠に当てはめてばかりいるところから革新的発明は生まれにくいのは言うまでもないでしょう。

また、これも彼の若い時のエピソードですが、インドへの旅費を稼ぐために、ATARIというゲームメーカーで働きたいと考え、アポなしで、しかも裸足でいきなり訪問し、「社長が出てくるまで帰らない。採用してくれるまで帰らない」の一点張りで、ついに社長を引っ張り出し、採用までされたのです。

ちょっと引いていしまうエピソードですが、ジョブズジョブズなら、採用した社長も偉大です。

アップル創業後も彼は普通の経営者とは違います。ジョブズジョン・スカリーという人物をスカウトし、CEOに据えます。しかしこの人物との関係性が悪化し、なんと、スティーブ・ジョブズは⾃分が創業したアップルから追放されてしまうのです。若き億万⻑者は、⼀夜にして「全⽶で最も有名な失業者」に落ちぶれました。

その後復帰するのは10年近くあとの1996年でした。しかし、後年ジョブズ「その時は気がつきませんでしたが、アップルをクビになったことは⼈⽣最良の経験であることが後でわかってきました」と振り返っています。

先にかなり引くような逸話を並べましたが、自分が創業した会社をクビになったあとの10年間ほどの期間が彼にとってとても内省によい期間だったのでしょう。彼は日本の禅にも非常に興味があったといわれていますが、まさに禅問答のように、日々自分やこれまでの出来事などを繰り返し考え、人生の肥やしにしたと思います。

それが後のアップル社復帰と“iPhone”の成功につながったのでしょう。

一つのことに徹底的にこだわり抜く慣習と、また、時には禅問答のように静かに内省する時間、現代の経営者にも十分に生かせるメソッドです。社長やリーダーは自分自身にこうしたメソッドをあてはめていく必要があります。

最後にもうひとつ、彼の名言を記しておきたいと思います。

『仏教には「初心」という言葉があるそうです。初心をもっているのは、すばらしいことです』


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第7回 恐れを抱いた心では、何と小さいことしかできないことでしょう [フローレンス・ナイチンゲール]

看護師だけではない業績

19世紀から20世紀にかけて活躍をしたナイチンゲールといえば、多くの人が看護師・看護教育の第一人者として挙げるでしょう。しかし彼女の業績は、看護師・看護教育にとどまりません。統計学や病院建築・運営でも非凡な才能を発揮しました。

彼女の活躍でもっとも有名なものは、1853年にはじまった近代戦争の中でも稀にみる大規模な戦争であったクリミア戦争での従軍看護です。このときの看護活動はもちろん、衛生改善が注目されます。

数学が得意だったナイチンゲールは、戦闘による負傷よりも、兵舎病院における劣悪な衛生環境下での合併症の発症で死亡する兵士の方が多いことを統計的に解明しました。そして政府をも説得し、衛生状態を改善させ、42.7%だった死亡率を半年で2.2%にまで改善したのです。

これをもとに、1860年に開催された国際統計会議で衛生統計の国際基準を発表して採択されました。また、女性として初めてイギリス王立統計協会会員にも選ばれています。

のちに彼女自身が「看護師の仕事だけが重要ではない」と言っており、その才能の幅を物語っています。いまでこそ女性の社会進出は当たり前の時代になっていますが、その先駆け以上の功績を残しています。

フローレンス・ナイチンゲール
フローレンス・ナイチンゲール


粘着質なまでの看護精神

ナイチンゲールの逸話で驚くものに、親友がナイチンゲールと一緒に看護の仕事をしていたときに、あまりに仕事が過酷でその親友がナイチンゲールに改善を懇願したもののナイチンゲールはそれを叱咤し、なかなか認めませんでした。結局その親友は後日過労で亡くなってしまいます。今の時代でいうとブラック企業といえるかもしれません。

しかしことほどさように彼女は献身的な仕事ぶりだったようで、家族や医者がが止めても死の間際までずっと仕事をしていたそうです。一種のワーカーホリックだったのかもしれません。

看護する、すなわち人を助けるという点においては極めてしつこく粘着質だったようです。そうした粘り強い仕事ぶりが数々の功績の根源になったのでしょう。

一方で愛想は良い方ではなく、他人には無愛想・わがままで、指摘も厳しかったと伝わっています。



しつこい努力

ナイチンゲールをして「白衣の天使」「クリミアの天使」「ランプの貴婦人」などという形容がいわれます。しかし、これらの形容が成り立つには、先に述べたように不断の努力がベースにあったことがわかります。それもただの努力ではなくしつこい粘着質な努力です。

そんなナイチンゲールの言葉「恐れを抱いた心では、何と小さいことしかできないことでしょう」は現代にも十分に響きます。何かを成し遂げるには最初から恐れていたのでは小さなことしかできない、目標のためには恐れなど捨てなさい、と今にも彼女に叱られそうな想像すら浮かびます。

企業経営でも同じで、最初から恐れをなしていてはイノベーションなど生まれません。それが大きな目標であるほど、経営者は勇気をもって臨むべきです。

社長が恐れをなしていては社員も士気がつられて下がるというもの。新たに起業するスタートアップ、新規事業の立ち上げ、経営革新の旗振り、新商品の開発、イノベーション、いずれにしても社長の恐れない姿勢が試されます。


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第6回 重罪は甘んじて我等一人に受候決意 [井伊直弼]

幕末の大動乱をさばいた宰相

幕末の幕政を率いたことで有名な井伊直弼(いい・なおすけ)の言葉です。1858年、井伊直弼は諸藩の根強い反対を押し切って日米修好通商条約を締結しました。苦渋の決断ながら鎖国から開国に政策転換を図ったのです。

この言葉は、その条約締結を決断した夜のことで、井伊直弼の家臣が主君たる直弼の身を案じて条約締結を考え直してはどうかと進言したときに、直弼が家臣に返したものです。

「この度の重罪は私一人が甘んじて受ける決意だ。悠長なことを言っていられない」というような意味です。西洋列強が押し寄せ、お隣の清国はイギリスにアヘン戦争で大敗を喫していた時代で、日本外交が風雲急を告げ、待ったなしの状況でした。

そのような中でのたった一人での決断だったのです。よくご存じのように、その後1860年桜田門外の変で、井伊直弼は暗殺されますが、もうこのときすでに本人の中ではそうした運命も受け入れていたのかもしれません。

井伊直弼肖像画
井伊直弼肖像画


損得よりも責任

井伊直弼大老という当時の幕府では政治の最高職にあり、名実ともに幕政を握っていました。井伊家は彦根藩(今の滋賀県)を治める大名で、徳川譜代筆頭でもありました。

しかし、ご承知のように、ペリー率いる黒船来航など、諸外国が開国を迫って日本に押し寄せる時代、大老は権力はあってもそれ以上に重圧のかかる損な役回りといった方が適切かもしれません。

今でこそ日米関係は緊密で、経済の相互依存は世界経済の要にもなっています。しかし、その端緒はこの井伊直弼の条約締結ともいえるでしょう。

井伊直弼というと弾圧と暗殺されたことがクローズアップされ悪人のイメージがありますが、今の時代に照らしてみれば、格式もある出身で、わざわざ苦労せずとも世渡りすれば上手く生きていく道があったにもかかわらず、ここまでの重圧に耐えながら、責任を優先する政治家としての矜持を感じずにはいられません。

今の時代にそのような政治家がいるのでしょうか。



リーダーの責任の取り方

今の時代、コンプライアンス意識も高まり、企業や組織で何かあったときの責任の取り方は非常に重要です。この井伊直弼の身の処し方は時代とともに語り継がれるでしょう。

組織において人を動かす要素の一つとして、リーダーがいかに責任を取るか、その身の処し方がチーム全体の士気にもかかわることは、昔から多くの武将や軍師も気づいていました。

織田信長も信賞必罰には律儀であったといわれていますし、三国志で有名な諸葛亮孔明も「泣いて馬謖を斬る」という信賞必罰の教訓を残しています。

もちろん今の時代暗殺などは物騒ですが、そこまでのことでなくとも、リーダーはやはり自ら責任を取る、あるいはクレーム対応や謝罪など部下が嫌がる仕事を率先して実行する姿勢を見せることこそ重要な役割です。

リーダーの責任、言葉以上に重いものがあります。


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第5回 今を戦えない者に次とか来年とかを言う資格はない [ロベルト・バッジョ]


今を戦えない者に次とか来年とかを言う資格はない

これはプロサッカー選手で元イタリア代表のレジェンド、ロベルト・バッジョの名言です。

稀代のファンタジスタ(天才的なサッカー選手)は親日家でもあります。すでに引退して10数年以上経過していますが、彼のこの名言は現在も色あせません。

ロベルト・バッジョのイタリア代表での通算成績は国際Aマッチ56試合出場27得点で、そのうち得点を決めた試合の成績は22試合中18勝4分で「バッジョが点を決めれば負けない」と言われたほどです。

「サッカーに恋をした」と言ってはばからないロベルト・バッジョ、今チャレンジしない者に次などないと喝破します。

「イタリアの至宝」「偉大なるポニーテール」といわれるロベルト・バッジョ
「イタリアの至宝」「偉大なるポニーテール」といわれるロベルト・バッジョ


挑戦し続けたロベルト・バッジョの選手時代

若き日の彼は、セリエAフィオレンティーナと契約成立し移籍したわずか2日後に、右膝十字靭帯断裂という大怪我を負います。

普通の人ならここで諦めたり、落ち込んでしまい、なかなか次のステップに踏み出せません。
しかし彼は違いました。クラブ側も辛抱強く彼の回復を支援し、3年後には目を見張る大活躍を見せるのです。

現在のビジネスシーンは市場の変化も激しく、スピードを求め、すぐに結果を求める傾向は否めません。もちろんそれは市場で勝つためには無視できない要素ではあります。

しかし、経営者も従業員もスタッフも、そして取引先も顧客も消費者もみんな人間です。「スピード」以前に、まずは「挑戦」を始めることをしなければ何も変化は生じません。もちろん結果など得られようもありません。

稀代のファンタジスタは天性でそれを知っていたのでしょう。


三日坊主の克服

日本の格言に「思い立ったが吉日」というものがあります。何かをしようと決意したら、そう思った日を吉日としてすぐに取りかかるのが良いという意味です。

ロベルト・バッジョの「今を戦えない者に次とか来年とかを言う資格はない」に通じるものがあります。

「やっぱり後回しにしよう」「〇〇が終わってからにしよう」など、私たちはすぐに言い訳をして目標を後回しにしてしまいがちです。

それは、仕事やビジネスだけに限りません。ジョギングやジム、ダイエット、勉強、宿題、禁煙、習い事など、三日坊主に終わってしまうことが山ほどあります。

経営者の重要な仕事のひとつは三日坊主を組織から遠のけることにあるともいえます。



やり始める儀式

ロベルト・バッジョはこうも語っています。
「PKを外すことができる者は、PKを蹴る勇気のある者だけだ」

これも今回の名言と通じるものがあります。「挑戦」です。

リーダーは、まず自分が「挑戦」し「三日坊主」にならない役目があります。その上で、「挑戦」し「三日坊主」にならない組織づくりが必要です。

そして何を始めるとき、特別な儀式など必要ないということです。

始めるための儀式などをするから、何かと後付けの理由を考えて結局うやむやになります。ならば、特別な儀式などせずに、まるで息を するように普通に何かをすっと始めるべきです。

まずはトップがすっと自然に何かを始めるのです。その上で、新たな挑戦について組織内で共有するのです。


社長の背中は思ったより見られている

よく社長さんと会話していますと「うちの従業員は私のことなど気にしていない」という言葉を聞くことがあります。

しかし、それはその社長さんの思い込みで、従業員やスタッフは思った以上に社長の背中を見ています。少なくともその組織にいる限り必ず見ています。

ですから、リーダーたるもの自組織で新しい挑戦を実行するのであれば、まずは、まるで息をするように自分が新しい挑戦を率先して始めて見せて、その上で従業員やスタッフにも浸透させていくべきです。

「今を戦わないものに次はない」というロベルト・バッジョの名言も、名言以前に、今でも多くのサッカー選手のお手本になっているはずです。

たとえ小さなお手本でもそうありたいものです。


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第4回 歩け、歩け。続けることの大切さ [伊能忠敬]


歩け、歩け。続けることの大切さ

これは江戸時代に日本中を測量して回り、日本地図製作者として有名な伊能忠敬(いのう・ただたか)の名言です。
なんの交通手段もない江戸時代に日本全国つつうらうらを徒歩で測量して回った彼の偉業を称賛せずにはいられません。

なぜなら、彼は55歳から日本地図の製作に着手し、その後17年という気の遠くなるような歳月をかけたのですから。

江戸時代の55歳といえばもう完全にご隠居さん、いまでいう高齢者の部類です。そのような晩年期から徒歩で日本中を巡り、まさにこつこつと継続的に測量を続け、日本地図を完成させたのです。

伊能忠敬肖像画
伊能忠敬肖像画


継続は力なり。続けることの難しさ

日本には「継続は力なり」という格言があります。まさに伊能忠敬の測量と日本地図製作にぴたりとあてはまる言葉です。

経営者や事業主、組織のリーダーの皆さんは常にそうありたいと願っているでしょうが、なかなか言葉通りにはいきません。現代社会には数々の誘惑がありますし、雑用なども入ってきて思うようにいきません。


しかし、そういうときはこの伊能忠敬の名言を思い出してください。17年の継続の力です。17年というとものすごく長く感じるでしょうが、逆に言うと、17年という歳月をかけて継続すれば、偉業も成し遂げられるんだという心強いメッセージでもあります。

伊能忠敬の製作した日本地図
伊能忠敬の製作した日本地図


継続する大切さとそれを実現するロードマップ

ビジネスや商売で「継続すること」は当たり前だという声が聞こえそうですが、それがなかなかできないのが人間の性(さが)です。

社長さんは、もう一度自分の組織に対して継続することの重要性を、この伊能忠敬の名言「歩け、歩け。続けることの大切さ」をとおして従業員やスタッフのみなさんと共有することからはじめてはいかがでしょうか。


まずは伊能忠敬の偉業と継続力の逸話によって、従業員やスタッフの心に訴えかけてみましょう。

そして、スローガンだけの掛け声倒れに終わらないよう、いつまでに、誰が、どのような方法で、何をするのか、ToDoとロードマップをまとめてみるべきでしょう。

「スローガンと計画」、この両輪がそろったとき、会社や組織はまた新たなステージに昇格すると思います。


現代の著名人も継続を知っている

最後に、ほかの著名人たちも“継続”の重要性をよく知っており、言葉を残しています。とにかく継続すること、ここから経営やマネジメントの変化がようやく始まると言えるかもしれません。

*先般引退したプロ野球選手のイチロー
「小さいことを重ねることが、とんでもないところに行くただ一つの道だ」


*経営者として著名な稲盛和夫
「いまこの1秒の集積が1日となり、その1日の積み重ねが1週間、1ヵ月、1年となって、 気がついたら、あれほど高く、手の届かないように見えた山頂に立っていた、というのが私たちの人生のありようなのです」

イチロー(左)と稲盛和夫(右)
イチロー(左)と稲盛和夫(右)


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第3回 孫武と孫氏の兵法(そんぶとそんしのへいほう)[ 2 of 2 ]

孫子の兵法の名言を理解してみる

孫子の兵法』が紀元前500年ごろに書かれた世界的に有名な戦略書であることは前回の記事で書きました。そしてそれは実に13篇にもおよぶ大作なのです。すべてを紹介することはできませんが、今回は、現代社会の経営者・組織長・リーダーなどが読んで参考になる部分をエッセンスでお届けします。

ちなみに、『孫子の兵法』というと『孫子という人の書いた兵法書』と思いますよね。あれ?孫武という人が書いたのでは?と気づく人もいるはずです。実はこの孫武という人の敬った呼び方が孫子です。したがって、孫子とは孫武の尊称です。

孫子こと孫武。伝承上の人物という説もあるが、その兵法は今も支持者が多い。
孫子こと孫武。伝承上の人物という説もあるが、その兵法は今も支持者が多い。


はじめは処女のごとく、のちには脱兎のごとし

これは戦争の仕方を説いています。戦争の序盤戦は、まるで処女のごとく何も知らない純朴なふりをして敵を油断させて欺け、そして、その後は脱兎すなわち駆け抜けるウサギのごとく一気に反転攻勢して叩きのめせ、と説いているのです。現代のビジネスに置き換えたらどうでしょうか。なんでもかんでも知ったかぶりをして目立つ仕事をするよりも、謙虚にまだまだ未熟ですというポーズをとっておきながら、ここぞというときに一気にまくし立てて顧客を説得して契約に持ち込んでしまうようなイメージでしょうか。まったくもってしたたかな戦略です。

疾(はや)きこと風の如く、徐(しず)かなるは林の如く、侵掠(しんりゃく)すること火の如く、動かざることは山の如し

これはみなさん武田信玄の「風林火山」としてよくご存じですよね。実は戦国時代もしきりに『孫子の兵法』が愛読され、信玄のように実戦にも取り入れる武将がいました。江戸時代になっても教養として学ばれたくらいです。さて、これの意味ですが、行軍(軍隊を移動させること)は風のように速く進ませ、陣容は林のように静かに悠然と構え、攻撃するときは火のように凄まじい勢力で攻め、そして、山のように陣形を崩さないことが肝要であるということです。現代の仕事にも役に立つ名言ですが、これをそのまま実践できる人はそうそういないかもしれませんね。これができる時点で、相当できる人だと思います。

武田信玄も孫子の兵法をたしなんだ。
武田信玄孫子の兵法をたしなんだ。


兵は国の大事にして、死生の地、存亡の道なり。察せざるべからず

これは孫子が兵法のわざわざ冒頭にもってきたとても有名な一説です。戦争は国家の一大事で、国民の生死、国家の存亡に直結するのだから細心の注意を払って慎重に慎重を重ねて検討すべきである、と説いています。興味深いことに、「兵法書」を書きながら戦争を勧めるのではなく、むしろ、戦争をできるだけ避けるように、トップは常に慎重たれと言っています。現代に置き換えても勝ち目のない博打的なビジネスには絶対に打って出るなという戒めに聞こえます。

実は、『孫子の兵法』は、先ほども触れたように兵法書なのにきわめて戦争に対して慎重であることを説いています。つまり、できるだけ戦争は避け、戦わずに勝つことを全編を通して唱えています。みなさんの身近に喧嘩っ早い人はいませんか?そういう人には「喧嘩するのもいいけど、今一度冷静に戦略をよくよく考えて、本当に勝てる喧嘩だけしてね」と言ってあげてください。相手はびっくりするでしょうね(笑)。

兵は勝つことを貴(たつと)び、久しきを貴ばず

これは、戦争の期間を戒めています。つまり短期決戦で勝つことはあっても、長期戦になると勝てないといいます。戦争は避けるほどよいが、仮に戦争に至ったとしても、短期決戦すべきだと警告しています。ビジネスでもだらだらと営業活動をしていてはいけません。短期決戦で決着をつけるよう持ち込み、ダメならそそくさと他のお客様に移るのも悪くないかもですね。

善く戦う者は勝ち易(やす)きに勝つ者なり。故に善く戦う者は勝つや、智名なし、勇攻なし

少し難解な漢文です。これは本当の名将とは、戦争する前に勝ちが決まっているような相手に勝つ者である。それがごく自然なことなので、名声もとどろかないし、賞賛もされないと説きます。これには少し説明が必要です。この「ごく自然なこと」とは、事前準備をしっかりして戦争に臨むリーダーこそ戦争に勝つべくして勝つ、だからそれがとても自然なことに見える、という意味があります。ノルウェーの探検家にアムンゼン(1872~1928)という人がいますが、彼は人類史上初めて南極点への到達に成功した人物です。その彼が「準備10年、成功5分」と言いました。要は準備の重要性を説いた言葉です。何かを成し遂げる人は準備の重要性をよく理解しています。

軍は高きを好みて下(ひく)きを悪(にく)み、陽を貴(たっと)びて陰を賤(いや)しむ。生を養いて実に処(お)り、軍に百疾なし

これは布陣、すなわち環境を指摘しています。「布陣するとき、低地を避け高地に、そして日当たりの良い場所を選び日陰を避ける。そうすれば健康管理に役立ち、病気にならない」と言っています。不動産物件選びのようで当たり前のことといえば当たり前ですが、会社経営・組織運営において、メンバーの環境を端々まで考えるのはなかなか骨の折れることです。いまの時代でいえばさしづめ「働き方改革」の「環境編」のような意味でしょう。

而(しか)るに爵禄百金愛(おし)みて敵の情を知らざる者は、不仁の至りなり

これは『孫子の兵法』の最終篇「13章:用間篇」に出てくることばです。用間とは、間者、つまりスパイを用いる戦略のことで、孫子は最終章で情報戦略がいかに重要であるかを力説しています。「金銭を惜しんで敵情を視察しない者はアホだ」と言っています。また同じ章で、情報戦略こそ戦略の要で、それが全軍の命運にかかると言っています。まさに現代の情報社会・ネット社会の神髄を言い得ているようです。



戦わない戦略、負けない戦略

孫子の兵法』の基底に一貫して流れているのは「戦わずして勝つ、戦ったとしても、負けないようにする、被害や投入コストを最小にする」という、戦わない、負けないということを終始一貫して教えています。つまり戦争することは最終手段で、ほんとうは戦争などせずして勝利を収めることが賢い戦略だということでしょう。戦略書の本質が、非好戦の勝利だという事なのです。

実はこのような論理は、旧ドイツプロイセンの将軍カール・フォン・クラウゼヴィッツが著した『戦争論』にも見られます。『戦争論』も『孫子の兵法』と並んで兵法書として世界的に有名で、むしろ欧米ではこれが戦略論のテキストにすらなります。この『戦争論』も「戦わずして勝つ、戦ったとしても、負けないようにする、被害や投入コストを最小にする」という理念は非常に似ています。

カール・フォン・クラウゼヴィッツ(1780年~1831年)
カール・フォン・クラウゼヴィッツ1780年1831年



日本も1945年に敗戦してから70年以上、自ら戦争を起こしていません。戦後70数年いろんな経済危機や事件や災害がありましたが、それでも今でもそれなりに暮らせているのはやはりこの戦争が無かったことが大きいでしょう。孫子の非戦の戦略は今の時代にも十分に私たちに生き残る知恵を与えてくれます。現代の経営論や組織論にも応用できると考える人が多く、いまだに支持があるのでしょう。

今後とも引き続きよろしくお願いします。


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第2回 孫武と孫氏の兵法(そんぶとそんしのへいほう)[ 1 of 2 ]


世界最古の兵法書

今回は、多くの人が一度は耳にしたことがある「敵を知り己を知らば百戦危うからず」でおなじみの孫子の兵法』を取り上げます。よく混同されるのですが、『孫子の兵法』とは書物の名前であり、著者は孫武(そんぶ 紀元前535年?~没年不明)という人物で、中国古代・春秋時代の軍略家、すなわち軍師です。 この孫武という人も古代によくありがちな実在がはっきりしていない人物です。

しかし、そんなことはささいなことです。この『孫子の兵法』は古代から現代まで世界中で軍略の教科書として、戦略を学ぶ人の入門書として長く重宝されてきました。これほど長い歴史をもった兵法書は『孫子の兵法』以外には見当たりません。それほど戦略の手引書として敬愛されてきたのです。


孫子の兵法関連の書籍の写真
孫子の兵法関連の書籍は多数発売されている


それは、世界中の政治家・リーダー・経営者たちが日々何らかの競争や戦いに巻き込まれ、それらの状況の中で「なんとか勝ち残ろう」「なんとか生き残ろう」ともがき苦しんだとき、このテキストから学ぶことがあったからでしょう。今の時代なら、自分の身に困ったことが起こった時、ネットで調べたり、SNSで誰かとつながって相談もできますが、はるか昔においてはまさに孫子の兵法』が情報戦略の要だったのかもしれません。



軍師とは

本題に入る前に、改めて「軍師とはなにか?」ということについて説明したいと思います。多くの人は「軍師」というと、戦争のための参謀役のイメージがあるでしょう。総司令官の傍らに居て、作戦のアドバイスをしているというイメージです。あながちはずれではありませんが、すべては表していません。

世の中には、経営者・政治家・総司令官・工場長・船長・学長・病院長など組織を束ねるトップリーダーがいたるところに存在します。これら組織の責任者はその組織が継続的に発展するよう努める責任があります。このときその組織をどのようなビジョンでどのような方向に、どのような方法で導くのが最適なのか、常に考え、判断し、決断する必要に迫られます。


ゲームにもなっている孫子の兵法
ゲームにもなっている孫子の兵法


この「どのようなビジョンでどのような方向に、どのような方法で導くのが最適なのか」という点がまさに“戦略”にあたります。この戦略は先に述べたように、もともとは軍事色の強いものでしたが、次第に現代社会のあらゆる競争やソリューションにも応用できることが以前からわかっていました。そこで、戦略家、すなわちかつてでいう軍師を活用するトップリーダーが出てきました。例えばアメリカ大統領の首席補佐官などは典型的な戦略家であり、過去の歴史でいえば軍師に相当します。

日本の戦国時代の軍師でも軍略ばかりでなく、内政や経済政策に大きな影響を与えた人もいました。このように軍師とは歴史的に過去においては軍略家であり、軍事のエキスパートでしたが、時代が新しくなるにつれ、戦争から経営・経済・ビジネス・国家運営・組織運営など幅広い戦略を組み立て操る人に変貌し、それが今の時代で言う「コンサルタント」ともいえます。つまり優秀なコンサルタントは優秀な軍師とも言えるでしょう。




死刑よりもコンプライアンス

話をもとに戻しましょう。『孫子の兵法』の著者孫武が歴史上実在した人物かどうかはっきりしていないということは先ほど述べました。それでも彼が兵法家として人気があるのは、こんなエピソードがあるか らです。

あるとき呉の王に招かれて、兵法による指揮を見せてもらいたいと請われることがありました。そこで孫武はデモンストレーションを見せるために、後宮の女官を多数王から借り受けて、王の前でこれらの女官を指揮してご覧にいれますと言いました。多数の女官の中から2名を指揮官に指名して、デモンストレーションがはじまりました。孫武はいたってまじめに軍太鼓を鳴らして指揮を執りますが、女官たちは何かの冗談かのごとくヘラヘラ笑ってまったく孫武の命令に従いません。それでも孫武は何度も大声で指揮を執ります。そして「軍命に従わないときは司令官の責任だ」と幾度となく厳重注意します。

それでも女官たちは軍令に従わずヘラヘラ笑っています。そこで、孫武は「軍命に背くのは重罪であり、指揮官に責任がある」と言って、最初に指名した指揮官2名の女性を手打ちにしようとします。さすがに王が止めに入り、「それらの女性を殺されたら食事ものどを通らなくなるから今回は勘弁してくれ」と言いました。しかし孫武は「ひとたび軍命を受けたからには、たとえ王の命令といえども従えない時もあります。それぐらい軍命は絶対的でないと戦争には勝てません」と言い、なんと2人の女官をその場で殺してしまいます。

さすがにその場が震撼し、続くデモンストレーションでは一糸乱れぬ軍行が行われました。このエピソードはあまりにも有名で、話の内容もさることながら、軍命すなわち現代に置き換えればまさにコンプライアンスであり、規則やルールを死にもまして遵守することを表している点です。そして、それを平民よりも一国の王自らが率先して守らなければならないということを強力に示したことにこそ、孫武が敬愛される理由があります。

トップこそルールを厳格に守って模範を示さなければ、国家などすぐに揺らいでしまうということを示したのでしょう。紀元前500年にすでにこんなことを国王に向かって述べていた孫武、そりゃもう軍師としての冥利(みょうり)に尽きます。日本の政治家たちにもぜひ言い聞かせてもらいたいものです。

この時代書物の多くは竹や木を束ねたものに書かれていた
この時代書物の多くは竹や木を束ねたものに書かれていた




軍師が活躍した古代中国

ひとつ日本との違いを紹介しておきます。中国ではこのように昔から国を治めるために積極的に軍師や兵法家を大いに登用して使いこなすという文化がありました。現代で言うとコンサルタントや戦略家、プロデューサーを積極的に活用したというところでしょう。日本はこの点はまだまだ未熟な感は否めません。

アメリカでは大統領は首席補佐官を筆頭に数々の顧問や政策アドバイザーを抱えています。中には売名行為でホワイトハウスに忍び込んできた者もいるでしょうが、多くの人は極めて優秀です。そして民間企業ならもっと高額な報酬をもらえるにもかかわらず、金銭面には執着せず、自分の仕事に使命感をもって働いている点を尊敬せずにはいられません。ようは古代中国もそうですが、「大国」にはこうした軍師や戦略家を積極的に活用する側面があることを指摘しておきたいと思います。

日本が先進国にもかかわらずいまひとつ大国感、威風に欠けるのは、こうした文化の欠如かもしれません。かつて戦国武将は教養としても、あるいは実際の軍略のためにも孫子の兵法をはじめ複数の兵法=ストラテジーを学び、そして軍師を活用しました。それに比べると現代の日本は少し物足りないかもしれません。


映画にもなっている孫子の兵法(China International TV Corporation)
映画にもなっている孫子の兵法(China International TV Corporation)




彼を知り己を知らば百戦危うからず

先に述べた『孫子の兵法』の名文句「敵を知り己を知らば百戦危うからず」ですが、正しい読み下し文は『彼(か)を知り己を知らば百戦危うからず』です。読んで字のごとく、相手のことを研究してよく知って、その上で自分のこともさらによく知って戦いに臨めば、百回戦っても百回とも負けることはないという意味です。「なんだ当たり前じゃないか」という声が聞こえそうですが、そこが現代人の浅薄なところかもしれません。

現代は「ポピュリズムの時代」と言われています。このポピュリズムとは何か?。例えば評論家の宮台真司氏は「自分の見たいものしか見ない。知りたいものしか知らない。それがポピュリズムの本質だ」と説明しています。つまり人間はすぐにそうした方向に流れやすく、世の中を広く大局的に見れる人はそうそう居るものではありません。だから、孫武がいう「相手のことをよく知って、自分のこともよく知る」ということは実はものすごく深い意味があり、かつ世俗の人間にとってはとても難しいことなのかもしれません。

たとえばあなたが経営者なら、お客さまや取引先の本音を本当に理解ができていて、また一方で自社の従業員のこと、自分の経営手腕の長短について深く理解していると言えるのでしょうか。あるいは、たとえばあなたが政治家なら諸外国との利害関係や思惑、威嚇やブラフ、軍事力が全て分析理解できており、他方で本当に国民の意識が理解できており、自分の政治手腕の長短をつぶさに認識できているのでしょうか。そんな神がかり的なことは普通はありえません。だからこそ孫武はこの点を強調したのです。





孫子の兵法の本質

孫子の兵法』をつぶさに読み解いていくと、いかに戦争に勝つかということよりも、むしろいかに戦争を避けるか、負けないで生き残るかということに重きをおいていることがわかります。兵法と言うとあたかも戦争に勝つことばかりを考えているように思われがちですが、そうではありません。むしろ脆弱な人間が生存をかけてどのように生き残っていくかという事こそ、実は本当の戦略である孫武は私たちに教えてくれます。今の時代でいう「サスティナブル(持続可能性)」すら基底にあったように感じます。

しかし、『孫子の兵法』は全体で13篇からなる大作です。この一文だけですべてを決めつけることは早計です。

もっと研究が必要ですが、今回はここまででお開きとして、次回に孫子の他のセオリーをみていきましょう。

それではまた次回よろしくお願いします。


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第1回 竹中半兵衛(たけなか はんべえ)

夭折した不運のヒーロー

記念すべき第1回で取り上げるのは、竹中半兵衛(1544年~1579年)です。これは通称で、竹中重治(たけなか しげはる)が本名です。

コーエー社のゲームで取り上げれている竹中半兵衛
コーエー社のゲームで取り上げれている竹中半兵衛

竹中半兵衛は、一部の戦国ファンの間では有名、いや熱烈な支持者がいる軍師で、とくに夭折(ようせつ、若くして亡くなること)したことから不運のヒーローとして取り上げらることがしばしばあります。 彼は豊臣秀吉の参謀として重用されました。同じく秀吉に仕えた黒田孝高黒田官兵衛)も下の名前が「兵衛」だったため、2人あわせて「両兵衛」「二兵衛」と呼ばれました。

その一方で、実在しなったのではないかという説もあります。しかし、それを言い出すと歴史上実在しなかったのではないかという説のある人物は、卑弥呼聖徳太子武蔵坊弁慶紀伊国屋文左衛門など大勢います。後世の人気や各種作品(小説・マンガ・ゲーム・テレビドラマ・舞台)に登場する不運のヒーロー竹中半兵衛に思いをはせながら今回は堪能していきたいと思います。





わずか数名で城をいとも簡単に乗っ取ってしまう

竹中半兵衛は美濃、今の岐阜県で斎藤家に仕えていました。かの斎藤道三(さいとう どうざん)の息子の斎藤義龍(さいとう よしたつ)に仕え、若いころから軍功(戦での功績)もいくつかあげていたようです。その後さらにその息子の斎藤龍興(さいとう たつおき)に仕えました。これが酒色におぼれるいわゆる暗愚(バカ殿)だったようで、家臣が諫めても聞き届けなかったようです。

あるとき半兵衛がお城(稲葉山城、今の岐阜城)に登城すると、半兵衛をバカにしていた他の武将たちが石垣の上から半兵衛の頭にこともあろうに小便をひっかけてからかいました。今の時代なら完全ないじめでアウトでしょう。しかしここからが半兵衛の本領発揮です。彼はいじめなどに屈しません。屈しないどころか、とんでもない仕返しを図ります。

稲葉山城にたった数名で乗り込み、愚臣どもを成敗して、主君龍興すら慌てて城外へ逃げました。なんと数名でお城を乗っ取ったのです。当然この武名はまたたくまに広がりました。とくに隣国尾張織田信長は当然興味を示しました。このときから竹中半兵衛の伝説が始まったのです。

お寺に伝わる竹中重治といわれる肖像画(Wikipediaから)
お寺に伝わる竹中重治といわれる肖像画Wikipediaから)


そして伝説は続きます。かの織田信長のことです。竹中半兵衛を自分の部下にした上に、さらに稲葉山城も手に入れようと目論むのは自然な流れです。そしてサルこと秀吉(当時は木下藤吉郎)に竹中半兵衛の引き抜き、今でいうヘッドハンティングを命じます。

すでに人たらしとして有名だった秀吉は三顧の礼竹中半兵衛を迎えようとします。ここも戦国ファンにとっては生ツバもののシーンです。半兵衛はいくら暗愚といえども主君を裏切ることは武士の恥と最初は断ります。しかし秀吉の熱烈なラブコールに半兵衛も最後は折れます。そして彼は秀吉にこう告げます「信長さまにではなく、あなたさまにならお仕えします」と。こういう憎いところがファンを惹きつける魅力でしょう。

半兵衛には他にもこんなエピソードがあります。あるとき半兵衛が自分の馬の手入れをしているときに秀吉が通りかかりました。秀吉は半兵衛のやせ細った馬を見て「お前ならもっと名馬が似合うだろう。名馬をそちに与えよう」と言いました。しかし半兵衛は丁重に断ってこう言います「名馬などもうったいのうございます。戦場でそのようなものに乗れば、敵方に盗まれまいか気になって戦に身が入りません。いつでも捨て置けるような馬が私にはぴったりでございます」。

もう憎いを通り越して、惚れ惚れしてしまいますね。竹中半兵衛のすごいところはこういうところでしょう。熱烈なファンが存在する理由がよくわかります。



今回のまとめ

現代にあてはめながら整理してみましょう。

1. いじめは現在の社会でも問題です。しかし、半兵衛はいじめに屈しなかったばかりでなく、逆に成敗に乗り出し、一気に形勢を逆転させています。知恵をもってブラックなことに対抗した、つまり武力に対して知恵をもってソリューションしたといったところでしょうか。

2. その城の乗っ取り方もかなり策略的で、今でいうと少人数で企業の乗っ取り(敵対的M&A)を決行したようなものです。その頭脳たるやといったところでしょう。

3. 信長からの誘いに最終的に秀吉を指名するところも並の人間にはできません。秀吉の将来性を見抜いていたとしか思えません。今はまだ無名のベンチャー企業に対して先見の明があるような感じです。

4. 秀吉から名馬の申し出があったにもかかわらず断りました。上司からの褒美を断り清貧に尽くすところに、拝金主義・バブルとは正反対の美徳を感じてしまいます。

現在の岐阜城
現在の岐阜城



むすび

記念すべき第1回で竹中半兵衛を取り上げた理由が伝わったでしょうか。 冒頭でも少し触れましたが、竹中半兵衛の実在には異説もあります。また上記で紹介したエピソードは彼の没後の創作ともいわれます。しかし、源義経も没後に創作されたとされる逸話が多く、ようは当時から人気があった人には死後もこうしたエピソード・美談が作られることは歴史上常にあったことです。たとえ創作であっても人として、戦略として、学ぶところは多いと思います。

いまの経営者やリーダーからしたらこんな清貧の思想をもった軍師がいたらどれだけ幸せでしょうか。むしろリーダーも学ぶところ多しでしょうね。

今の時代は企業経営者や政治家・タレントなど成功したトップの人がもてはやされますが、それらの人は決してひとりでその位置にたどり着いたわけではありません。必ず誰かの知恵や手助けがあったはずです。そのように知恵と戦略と義理を自分のためではなく、他人を引き立てるために使える人はこの世では稀有な存在です。そうした人をここでは「真の軍師」と呼んで今回はお開きとしましょう。

今後とも引き続きよろしくお願いします。


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